日本航空バレー部の月岡裕二監督は、長年バレーに携わるベテラン監督です。
選手としても監督としても活躍してきた月岡裕二監督。
今回は、そんな月岡裕二監督の経歴について調査しました。
月岡裕二のプロフィール
まず最初に月岡裕二監督のプロフィールです。
名前 :月岡裕二(つきおか ゆうじ)
出身地 :神奈川県川崎市
生年月日 :1968年4月28日
血液型 :AB型
身長 :185㎝
ポジション:レフト
出身中学 :川崎市立生田中学校
出身高校 :藤沢商業高校(現・藤沢翔陵高等学校)
出身大学 :明治大学
過去所属チーム:サントリーサンバーズ
監督歴 :日本航空高校男子バレー部監督(平成10年〜)
職業 :社会科教諭
月岡裕二の現役時代
続いて、月岡裕二監督の現役時代についてです。
中学時代〜高校時代
月岡裕二監督は、幼少期からバレーに携わっていたのかと思いきや、そうではありませんでした。
川崎市立生田中学に入学したときに、身長が170センチを超えていました。
最初はバスケ部でした。
バレー部は全国レベルの強豪で、羽田野義博監督に「誘うのはこれが最後だ」と言われ、やっていけるのか不安だったのですが、気持ちが動かされ、2年の夏にバレー部に入りました。
3年の時にはエースとして全国大会で好成績を修めましたが、羽田野監督からは技術よりも常に一人の人間としてどうあるべきかを考えさせられたことが、思い出です。
ー産経新聞より
なんとバスケ部からバレー部への転身でした!
中学年の夏からバレーを始めたというので、バレーボール選手の中でも遅い方ではないのでしょうか?
そこからプロ入りなので、よほどセンスがあったのでしょうね。
藤沢商高に進み、ここでは黒田裕監督から技術を基礎からたたき込まれました。
アタックの一本一本の正確性が求められると同時に、守備ではボールを落とさないという厳しい練習で、試合が最も楽という状況でした。
3年の時は主将で、インターハイと春高の2冠を果たしました。
ー産経新聞より
高校3年時には、エースでありながら主将を務めました。
春高バレーにも出場し、1人で13点をあげる活躍で、4年ぶり5度目の優勝に貢献したそうです。
エースと主将をつとめられるというのも、ポテンシャルが高い証拠ですね。
大学時代〜プロバレーボール選手時代
高校卒業後は明治大学に進学しました。
卒業したあとはサントリーに入社。
サントリーでは、コーチやアナリストを兼任しながら、7年間プレーしたそうです。
月岡裕二の監督時代
監督になった月岡裕二監督は、どのような経歴をたどっているのでしょうか?
30歳で現役を引退した1998年より、月岡裕二監督は、日本航空監督に就任しました。
2003年に春高バレー初出場に導きました。
それ以降、2022年の第74回大会まで20年連続で出場を果たしているというので、素晴らしいですね!
月岡裕二の指導方針
春高バレーの常連校として、20年連続で出場に導いた月岡裕二監督。
そんな月岡裕二監督の指導方針は、どのようなものなのでしょうか?
選手がバレーを最も大切にする状況をつくるには、何をしなくてはいけないかということです。
選手である前に学生であり、授業や寮生活をしっかり取り組むことが大事だと、教えました。
それが実を結び、就任4年目から県ナンバーワンとなり、連続で春高バレー出場を果たしています。
ー産経新聞より
選手である前に、学生であることを重視し、バレーボール以外のことをしっかり取り組むよう指導していたのですね。
確かに学生生活が不十分で、スポーツでも結果を出している選手は、あまり聞いたことがありません。
やるべきことをしっかりしているからこそ、バレーボールというスポーツができる、ということを選手には伝えていたのですね。
私は、学生スポーツは毎年選手が入れ替わる中で、監督の持論を押し付けるのでなく、その年の選手のいいところを伸ばしていくべきだと強く思っています。
だから、全国制覇した昨年のチームの経験はありますが、今年のチーム作りはもう一回、ゼロからのヨーイドンですね。
ー産経新聞より
長年監督をしていても、毎年選手は違います。
監督として、選手のいいところを伸ばしていく、という指導方針を強く持っていたという月岡裕二監督。
優勝経験したときさえも、また0から新しいチームを作る姿勢は素晴らしいですね。